【木曜日25-33】哲学本「フッサール」

木曜日

【木曜日25-33】哲学本「フッサール」

○毎月のKazuma企画の「読書会議」の課題本をきっかけに夏休み中に読んだ本(3冊)

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『100分de名著 フッサール ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 西研(2025)

・現象学とは、自身の体験を反省してその内実を確かめるという、一種の思考の方法。

・まっとうな学問的議論は、事実についてだけ可能ということなのか。いやそうではない。価値についても、誰もが納得できる考え=共通理解を作れるはずだ。
・問い方によっては、共通理解がつくれる。

・現象学は、ソクラテス以来の哲学の志を実現しようとするもの。

・実証主義的学問観に従えば、学問とは、価値判断を切り離して、客観的事実についての知を蓄積するものであり、そこにこそ学問的な厳密性、客観性がある、ということになる。
○研修評価でも、こういう実証主義的学問への憧れ(数値で示せて、客観的)は、ある。でも「評価=事実特定+価値判断」だとしたら、そもそも「価値判断=主観」を、評価から切り離すことはできないってことになる。

・人類として追及していくべき共通の目標も理想もないのなら、人生は死んだらそれでおしまい、ということにならないか。
・はたして人間は、理性にもとづいて普遍的な理想を形成し、そうすることによって、自分達の環境をよりよいものへとつくっていけるのか。
○これ、深い問いだな~。

・11世紀末ごろから十字軍の遠征が始まり、それをきっかけにイスラーム地域との交易が活発化。イスラームの特産品と共に、イスラーム世界に蓄えられてきたプラトン全集を始めとするギリシャ、ローマの古典がヨーロッパにもたらされ、古典古代の「再生」という意味の「ルネサンス」が始まる。
○そうだったんだ~。ヨーロッパで、ギリシャ、ローマの古典が「再発見」されたと思い込んでたけど、イスラーム世界から運ばれてきたものだったとは知らなかった。

・近代の学問は、単なる事実学ではなく、人間の生きる環境を「よりよいもの」にするための洞察を積み上げてきた。
・ルソーの思想を引き継いで、カントやヘーゲルが政治哲学を発展させ、スミスの経済学もリカードら後継の経済学者によって発展させられ、また19世紀には社会学も生まれて、人々の生きる環境をよりよくしようとしてきた。

参考:ルソー含む歩いていた哲学者たちの本

・自分達の環境をよりよいものへとコントロールする「自由」を取り戻すことは、どうすれば可能か? 
・理性にもとづく共通理解の可能性を取り戻すことが必要。

・マルクス主義は、経済的な搾取を廃止して、平等で自由な社会を建設しようとするものであり、20世紀における人々の希望であった。
・しかしそれは「自分達の考えこそが世界を客観的に捉えた普遍的真理であり正義である」という悪しき「客観主義」となり、反対する人たちを抑圧、排除してきた。自分達の内部でも、党派に分かれて抗争し、殺し合うことが起きた。

参考:マルクス・エンゲルス本

・客観主義でもなく、相対主義(人それぞの考え、価値観があるだけで、普遍的な認識や価値などないとする見方)でもない仕方で、共有しうる認識や価値をつくりだすことはできないか? 
・フッサール現象学は、まさしくそのための考え方と方法を提示している。

・実証的なデータを、エビデンスとする実証主義は、もともと自然科学から生まれたもの。
・諸学の「危機」の発端が、物理学にある。

・(尺度を定めた)測量術は、人類史上はじめて「絶対的な同一性」をつくりだした。
・ユークリッド(古代エジプトのアレクサンドリアで活躍した数学者エウクレイデスの英語読み)幾何学は、「なぜそうなるのか」を誰もが洞察できるようにした、完璧な理詰めの体系であった。

・私達が直観している生活世界と、物理学が数学的に捉える世界は、まったく異なるもの。
・物理学の語る数学の世界の方が「客観的な真の世界」だと私達は信じている。色も音も匂いもある生活世界は「主観的、相対的な世界」にすぎないとされている。

・フッサールは、生活世界こそが、土台だと考えた。
・生活世界は「予見(~すれば、…するはず)」を必要とするが、その予見を精密に行う技術が、物理学。

・ガリレイによる「自然の数学化」は、生活世界を「隠ぺい」することでもあった。
・最終的に「価値を語れない」とする実証主義的学問観が、学問の世界を制覇するに至った。

・心(主観)がなければ、自然(客観世界)を捉えることはできないのではないか。
・宗教において、神と呼ばれてきたものは、一種の「主観」だったのではないか。

・あえて「主観」の場から考えようとする発想のことを、フッサールは「超越論主義」と呼んでいる。
・あえて主観の場にとどまるという姿勢を徹底してみる=現象学的還元

・客観に「価値」を入れ込んでしまうと危険が生じる。「これこそが客観世界に即した正しい認識であり、この認識にもとづいて未来社会を建設することこそが、唯一の正義なのだ」と、マルクス主義は主張し、その意見に従わない人を抑圧した。
・価値を入れ込んだ客観主義は、独断的客観主義。

・現象学的には、あらゆる認識はすべて確信、信念だと考える。その中で、他者と共有でき、客観世界について合致していると確信できるものを、私達は、客観的認識と呼んでいる。

・「知覚されたことは、間主観的に共有できる」ということに、全ての実証科学は支えられている。

・学問とは「どこかに存在する客観的真理を発見すること(真理発見モデル)」ではなく、「人々が共有するに足る条件を備えているかどうかを考慮しつつ、理論や主張を導き出す営み」だという、新たな学問観。

・現象学的な発想を用いれば、「何を、どこまで共有できるか」を考えながら、共生の可能性を追求することができる。
○これ、事業や地域活動での実践のヒントになりそう。一歩ひいて、メタに考える。ただ、これが難しい。どうしても、自分の経験から得た主観が一番と考えてしまう。

・フッサールは、自分自身の意識体験を反省して、そこから明らかに読み取れることを、現象学におけるエビデンス(体験反省的エビデンス)とみなした。
・権威によって「これが正しい」とするのではなく、一人一人が自分のなかのエビデンスに従って、正しいかどうか判断できるところに、現象学の強みがある。

・理念を構想する「本質学」と、それを実現するための「事実学(実証科学)」とが連動することこそ、フッサールの考えた新たな学問の全体像だったのだろう。
○これは、東洋では「本学と末学」と、表現されているな~。

参考:

○西先生の解説で、なんとなく、フッサールの言いたいことが分かった気がした。(あくまで、気がするだけ。) 夏休みだし、フッサールの本にも挑戦してみよう!

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『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 E.フッサール(1995)中公文庫

・主観性の謎

・学問一般が、人間の生存にとって、何を意味してきたか、また何を意味することができるか。
・単なる事実学は、単なる事実人をしかつくらない。

・人間の生存全体に意味があるのか、それともないのか。
・単なる物体科学は、この点については何も語ってくれない。それはいっさいの主観的なもの捨象する。

・理論としての哲学は、研究者だけではなく、哲学的教養をもつすべての人間を自由にする。
・実証主義は、いわば哲学の頭を切り取ってしまったことになる。

・近代の初頭以来、学問の動きを統制していた哲学と方法の理想が動揺し始めた。
・ガリレイ的、数学的自然科学が、幸運な実現の途につくやいなや、哲学一般の理念も変更されることになる。

・(私は)哲学的に生きるという運命を全面的な誠実さにおいて生き抜いてきた。

・世界は、統一をもった総体であり、一個の全体なのだ。

・ガリレイは、発見する天才であると同時に、隠ぺいする天才でもあるのだ。

・人間は、真に神の似姿。神は、「無限に遠い人間」である。

・超越論主義は、あらかじめ与えられている生活世界の存在意味は、主観的形成体なのであり、学問に先立って、経験しつつある生活の所産なのであると、言う。

・デカルトにとって、われ(エゴ)は「心、すなわち魂、すなわち知性」として規定される。デカルトは、身体を排除した。

・客観性という理念こそ、近代の実証科学の全体を支配している。

参考:『数値と客観性』『測りすぎ』

・哲学研究者にとっては、「判断中止」によって、新たな種類の経験、思考、理論家の道が開かれるということである。
・超越論的態度=判断中止(エポケー)

・心理学の歴史は、実は危機の歴史に他ならない。
・心理学は、デカルト的二元論に由来するような心の概念から出発した。
・ついに自然科学と並びうるようになったという深い確信で満たされたばかりの心理学の一つの危機を経験したところである。

・自然科学は外的経験に、心理学は内的経験にもとづくべきとされる。
・生活世界におけるすべてが明らかに主観的なもの。

・デカルトの二元論は、心(mens)と、物体(corpus)の並置を要求。

・物理学の類似品としての「精密な」心理学というものは、背理なのである。
・心の科学は、自然科学には定位しえない。
○心の中を、アンケート等で測定し、なるべく客観的、科学的であろうと、データを提示してきた人たちにとっては、きつい言葉かも。

・心理学にとってもまた客観性ということが、単に主観的なものは全て排除するという意味になった。

・デカルトは、近代という歴史的時代の創建者なのである。

・人類は、理性的であろうと意志することによってのみ、理性的たりうる。

・賛美された科学に、本当は何が欠けているのか。

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『デカルト的省察』 E.フッサール(2001)岩波文庫

・超越論的現象学を、新デカルト主義と呼ぶことができる。

・前世紀の半ばから、哲学の衰退は紛れもない事実である。

・デカルト自身は、初めから、学問について一つの理想をもっていた。それは幾何学あるいは数学的自然科学という理想だった。

・絶対に疑うことができないという、デカルトの原理。
・疑いの余地がないほど確実で、究極的な判断の基盤としての、「我思う エゴ・コギト」へ向かう転換であり、根本から始める哲学はいずれも、そのうえに基礎づけられることになる。

・判断停止(エポケー)とは、いわば、根本的で普遍な方法。
・エポケーによって、私と私の生は、存在の効力をもったまた影響を受けることなく、とどまっている。
○このエポケー(判断停止)というのが、自分の理解不足だけど、よくわからない。

・体験は、すべて「地平」をもっている。地平とは、あらかじめ描かれた潜在性のこと。

○ふっと思ったのは、フッサールは「歩いて考える人」だったのか、あるいは「止まって考える人」だったのか?何となく「止まって考える人」だったように感じる。止まって、深く潜って、考えた人なのかも。

参考:歩いて考えていた人たちの本

・自我は、変化の中で持続する型を保持し、人格としての性格を保つのである。

・「超越論的な」問いを正しく立てることができる自我とは、いったい誰なのか?
・私はどうやって、私の「意識の島」から抜け出すのか?

・私は、他者を単純に私自身の複製と捉えているわけではない。

・現象学の一つの成果は、新しい存在論の試みに導いたこと。

・どんな子供も、その発達の中で自分なりに世界の表象を作り上げていかなければならない。
・子供は客観的に見れば「世界へとやってくる」 しかし子供の心的な生活は、どのようにして「始まる」ことになるのだろうか。

・実証的な学問は、世界を喪失した学問である。
・世界を普遍的な自己省察において取り戻すために、まず世界をエポケーによって失わなければならない。
・アウグスティヌスは次のように言っている。「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の内部に宿っている」と。
○客観的な真理が外にあるわけではなく、自身の主観で徹底的に考えることが、真理に近づく道ってことなのかな~。

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投稿者:関根雅泰

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