【木曜日25-26】歩く本(1)

木曜日

【木曜日25-26】歩く本(1)

○母と熊谷に行った時、駅の本屋で買った本。いい本に出会えた~。(1冊)

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『歩くという哲学』F.グロ(著)谷口亜沙子(訳)(2025)

・「遅さ」の真の対義語とは、「焦り」なのだ。

・スピードの幻想とは、それで時間を稼げると思い込むところにある。
○これ、俺にあるな~。

・歩くことは、まず第一に、宙づりとしての自由をもたらす。
・歩いている時に得られる自由は、誰でもなくあれることの自由だ。
・わたしはただ二本の足のついた一匹の獣。
○これ、コロナ禍で山歩きしてて、シカやイノシシと出会った時に感じた感覚に近い。人間は特別な存在ではない。単に、二本足で立っている弱っちい生き物。

・自分自身を深く味わうためには、山歩きは一人でするにかぎる。
○これ、ほんとそうだよな~。

・「わたしは、散歩している時でなければ、なにごともできない。野山がわたしの書斎である。」
・ルソーは、1日中歩きながら、自分の中に「ホモ・ヴィアートル(歩く人)」を見出そうとした。

・歩き続けることで生じるのは、他者に対して、とくに何も感じなくなるのだ。

○ルソー、いいな~。紹介されてた『孤独な散歩者の夢想』買って、読もう!

・大地との接触を感じながら歩けば、持久力が湧いてくる。大地は活力の源なのだ。
・歩くことは、大地に足をあずけることによって、エネルギーを吹き込まれることだ。
○これほんとそうだよな~。特に、白足袋で歩くと、地面を感じやすくなる。

・アルベールは、どんな時でも、歩いてさえいれば、そこからエネルギーを得ることができた。

・歩くときに「静けさ」と呼ばれているものは、決して単なるおしゃべりの終わりではない。
・それは何よりもまず、言語の消失である。

・歩き始めると、ニュースはどうでもよくなる。
・不変のものと向き合うことによって、儚いニュースから解放される。

・これらは、わたしの前からずっとここにあり、わたしの後にもずっとここにあるだろう。
○これ!山伏の瀧田さんに教えてもらったこと。私たちが歩く何百年も前からここを歩いた先達がいて、自分の後にも続く人たちがいる。過去と未来の繋がりを感じさせてくれるのが、山歩き。

・歩行と哲学との間にある、より深い親縁性。両者は、ものごとを「知る」時の流儀が似ているのだ。

・ランプを灯すためには、よそから火を持ってこなければならない。その火花、それが書物である。
・本に親しむことで可能になるのは、自らを燃料として自らを完成させてゆくことだ。
・思考が、魂を燃料にできるようになったからだ。そうなれば、もう書物を取り去っても、哲学の火は消えない。

・歩く人は、風景を包み込み、風景に包み込まれている。
・「急がないこと」
・ゆっくりと、やさしく繰り返す。歩きながら、空間を撫でる。
○この表現、いいな~。毎日の山歩きは、空間を撫でていて、こっちも空間に撫でられているのかも。

・「座っている時間をできるだけ少なくすること。あらゆる偏見は内臓から生じるのだ。」ニーチェ
・思索をしながら歩き続け、しかるのち一気にそれを紙に書きつける。
・すべては、歩きながら考えたもの。
・「わたしは平均して、朝に一時間ほど、午後に三時間ほど、早足で散歩する。道のりは毎回まったく同じだが、どんなにくり返し通っても、毎回美しい道だ。」ニーチェ
○ほんと、どんなに繰り返し通っても、毎回美しい道。そう感じられる場所があることと、そう感じられる自分でいられることが、幸せ。

・ニーチェにとっての歩行は、著作の条件だった。
・歩きながら著述をする者には、繋累がない。釈明する必要もないし、誰に説明するわけでもない。
・長々と論証ではなく、軽みのある、深い思想。
・思考は、軽ければ軽いほど高みへと達し、かつ深みを持つ。

・歩きながら考え、考えながら歩く。そうすれば、書くことは、ごく軽い休憩のようなものとなる。
○紹介されているニーチェの『悦ばしき知識』買おう!

・快楽とは、「よき対象」との出会い。
・喜びとは、肯定感に伴われる感情なのだ。

・小道は、空間へのオマージュである。
・自分の足で歩いてゆくということは、風景に敬意(オマージュ)を捧げることだ。
○これもいいな~。まさにそういうことなんだろうな~。

・ソローの『歩行(ウォーキング)』は、歩くことをめぐる哲学的著作の先駆けとなった1冊。
○これも買おう!

・歩くために、わざわざ遠出をする必要はない。
・ソローは、朝を信じている。というよりも、朝は人に信じさせる力を持っていることを知っている。
・健康の度合いは、どのくらい朝が好きかによって、はかられる。
○朝型の自分にとって、とても励まされる言葉。苦しい時も「明けない夜はない」と考えられるのは、朝の力なのかも。

・真の人生とは、常に「他と違う」人生のことだ。

・歩くことによって、まず思考のスイッチが入る。
○これはほんとそうだよな~。歩くと、色々考えられる。

・ワーズワースは、「歩くこと」を詩的な行為として見出した。
・「哲学するために足をつかった最初の人物のひとり」
○いいね~。ワーズワースの詩集も買って、味わってみよう。

・ワーズワースは、自然の小道を行き、一人でいることを味わい、詩を書くことを選んだ。
・「同じこと」の反復がもつ甚大な力がある。

・謙虚さとは、わたしたちの有限性に静かに思いを馳せることである。
・ガンディーは、生涯、決して歩くことをやめなかった。自分が健康なのは、常に歩いているからだと言っていた。

●参考:ガンディー

・権力者が震え上がるのは、民衆が「共にあることの喜び」を見出してしまう時だ。
・「国家なければカオスのみ」と声高に語られる嘘を打ち破る。

・文化的な型をもつ歩行の典型が「聖地巡礼」である。
・真の意味で歩き出すことは、一連の「さよなら」を背後に蒔いてくることだ。
○これは「そこで終わり」の意味もあるかもしれないけど、歩きながら、何かの種を蒔き「そこから始まる」という面もあるかも。

・巡礼から戻る時には、何かが「変わって」いなければならない。
○そのくらい「教育効果」がある歩き(巡礼)を、比企ら辺で実践できたら凄いよな~。そういう場に「まるキャン」がなれたらな~。

・アリストテレスには、「逍遥学派 ペリパテティコス(散歩好きな人)」という異名が与えられていた。
・犬儒派 キュニコス派の思想は、「歩く者」の条件と関連している。
 1)根本的なものの価値を顕揚 2)生の体験 3)外で生きる 4)必要なもの
・歩く者は、王者なのだ。大地が彼の領土である。「必要なもの」をひとたび獲得した者は、もはや不足を感じることはない。

・散歩には、数日にわたる山歩きのような荘厳さはないが、別の次元の広がりが感じられる。
・より謙虚なものだ。

・散歩は、身体の弛緩を引き起こすだけでなく、魂の疲れをも癒すもの。
・散歩が休息をもたらすのは、リズムを変え、手足をほぐし、頭を使うことをやめられるからだ。
・散歩に行くということは、仕事に別れを告げることだ。精神が「空いた」状態になるのだ。
○これあるな~。山歩きの1時間は、ネットにもつながらず、空いた状態になれているのかも。

・散歩は、目的もなく、ただ「歩く」ことによって、「見る」能力を取り返させる。

・(カントの)散歩コースは、いつも一定で、決して変わらなかった。死後に「哲学者の道」と呼ばれる道である。
○おこがましいけど、俺がいつも歩いている山道が、100年後に「ミニ起業家の道」と呼ばれたら、嬉しいな~。

・ただ身体的な努力を繰り返しているだけで、精神に「空き」ができる。そうなった時に初めて、ものを考えられる。

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●訳者あとがき

・よく山に行く人は「歩く人(Marcheur)」と呼ばれる。

・「山を歩く マルシュール」ということが、まさしく「歩くこと マルシュール」そのものであるかのように。
・とくに構えることもなく、時には普段着のような格好のまま「自然に」山に入っていく。

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○いや~、この本、良かった~。パッパ読んでく俺には珍しく、1章読んだら、そこで止めて、すぐに次の章に進まず、じっくり噛みしめながら、読んだ本。読み終えるのが、寂しくなるような本だった。

投稿者:関根雅泰

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