立教大学院 中原先生にお勧め頂いた本2冊です。
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『数値と客観性』(ポーター1995)
●訳者 解題
・数値にした瞬間に一人歩きしてしまうものは多くある。
・なぜ、数値が客観的と見なされて流通してしまうのか?
・数値とは「没個人化」のための道具
・定量化とは、力をもつ部外者が、専門性に対して、
 疑いを向けた時に、その適応として生じる。
・社会での専門家に対する信頼が弱い時、あるいは弱くなった時
 エキスパートジャッジメントに代わるものとして「数値」
 あるいは「手続きの規格化」がすすむ。
・「科学的」を構成する軸として「実証主義」「自然への制御
 可能性」「物質主義」という3つが挙げられる。
・物理学研究の観察から、科学が実験者という「個人の技能」や
 「特定の装置」を信頼して依存するという意味で「私的」で
 「局所的」要素を含むことが示唆される。
・同じ「科学的」という言葉が、一方で個人の技能に過度に依存
 する「私的」なものを形容し、もう一方で没個人性を目指す
 「公的」な数や手続きに使われている。
・「客観性」は「個人の恣意性」の恐れを排除してくれる。
・定量化の圧倒的な魅力は、没個人性、個人の恣意性の排除。
・外部圧力が弱い所では、恣意性の排除は気にならない。
・学者間の意見は違って当たり前、ということを言ってこなかった
 ことのツケが、東日本大震災直後に爆発した。
・本書によって「科学のすそ野にいる分野ほど、より科学的に
 こだわるのは何故か」という問いが氷解した。
●本文
・数字、グラフ、数式を、コミュニケーションの道具として捉える。
 これらは、研究者の社会的アイデンティティとも切り離せない
 関係にある。
・定量化とは、距離を越える技術である。
・ピアレビュー(査読)は、それ自体では決して主張の妥当性
 あるいは重要性を確証する上では十分ではない。
・「暗黙知」もっとも重要なことは言葉では伝えられない。
・統計的な知識は、ばかげているとは言わないまでも、本質的に
 表層的であり実態が無いという議論は、すでに19世紀において
 共有されていた。
・オペレーションズリサーチでは、費用便益分析が最適化の戦略
 として、ランドコーポレーションで開発された。
・F.テニエスは、社会は、大きく、没個人的で、機械的であり、
 共同体は、小さく、親密で、有機的であると、区別した。
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『測りすぎ』(ミュラー2019)
・測定基準の改ざんは、あらゆる分野で起きている。
・測定できるものが、必ずしも、測定に値するものだとは限らない。
・問題は、測定基準ではなく、測定基準への執着なのだ。
・測定執着への一つの方向性が、経営コンサルタントの台頭だ。
 彼らの一番の公理は「測定できないものは、改善できない」だ。
・外部からやってきた人々(例:CEO)は、経験に基づく深い知識を
 持たないがために、標準化された測定の形に依存する傾向がある。
・勝者の数を増やせば、勝利の価値が低くなる。
・教育は「地位財」であり、採用側にとって、学位は目印になる。
・ビジネスには、あまりに多くの時間と予算を測定に費やしすぎない
 ような抑制機能が備わっている。
・測定基準からのメッセージ:「大学は金を稼げるようになる所だ」
・主に外的動機に突き動かされる人間を、会社のトップには置かない
 ほうがいいかもしれない。
・微妙な問題であればあるほど、交渉プロセスは、非公開で行われた
 場合にもっとも効果を発揮する。
・個人の人間関係同様、国際関係においても、多くの習慣が曖昧かつ
 不透明なままである限りはうまくいく。
・「太陽は最高の殺菌剤である」は、ウィキリークス主義という新たな
 宗教の信条だ。
・透明性が、パフォーマンスの敵となる。
・測定されるものに労力を割くことで、測定されないがもっと重要な
 組織の他の目標を犠牲にすることがしばしばだ。
・測定対象が、人間の行動に関するものであればあるほど、
 測定の信頼性は低下する。
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投稿者:関根雅泰

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