【木曜日25-46】「現代思想」本

木曜日

【木曜日25-46】「現代思想」本

千葉雅也先生お勧めの本(1冊)

===

○立つほどの分厚さにひるんだけど、読み始めたら、面白かった。バラバラに言葉が出てくるけど、どこかでつながってくる感覚もある。まさに「調べる事典」というより「読む事典」!

・各用語を解説し説明する著者たちは、自分自身の主張をできるだけ前景に押し出すべく努力した。
○これ面白いな~。客観的な記述よりも、あえて主観的に。

・近代におけるアニミズムは、唯物論の前に敗北した。

・意思決定は、選択を行う思考活動。

・近親婚の禁止(インセストタブー)なくして、核家族の存在はありえない。

・本性として、攻撃性をもつ点で、人間も他の動物と異ならない。

・オペレーションズリサーチは、数値的に解き処理する方法を研究する分野。
・(シンプレックス法というアルゴリズムにより)局所的情報下での一時的解の進行の結果が、大局的情報下での解、すなわち真の解に到達しうる。

・フロイトは、不快とは心的興奮量の高まりをさし、快とはそれを解放することであると説明。

・「オイコス(家)の学(家政学)」としての「エコーノミー」が本来の意味を喪失し、現在のような「経済活動」を意味するようになったとき「家」の変容が開始された。

・イリイチは「学校化」されるというのは、制度のもとで生きることを選択して、自律的な考え方、学び方を放棄することであると考えた。
・隠されたカリキュラムとして、表面にあらわれているカリキュラム(授業一覧)を習得することが、富に至る確実な道だと暗黙のうちに示している。

・フーコーの脱中心化、デリダの脱構築、ドゥルーズの脱領属化なども、伝統的な管理主義的理性への抵抗を呼び掛けたものである。

・ポスト構造主義は、構造主義の「後」の思想ではなく、批判的に継承するもの。

参考:千葉雅也先生の「ドゥルーズ」本

・近代西欧の啓蒙主義の希望とは、人類の理性化であった。

・『孤独な群衆』(1950)で、リースマンは、他人の動向にたえず細心の注意を払わずにいられぬ模倣欲望の肥大した現代の群衆的個人を分析した。
○今のSNS時代だと、まさにこれが加速されちゃうよな~。

・ギリシアーヨーロッパ人たちは「在る」ことを「まっすぐに 立つ」と了解する。これを「垂直存在観」という。正しいことは「まっすぐ」である。Right。

・何ものかを支配する力が権力。
・権力分立は、国家権力を、立法、司法、行政の3つの異なる作用にわけて、権力の集中を回避しようとする近代国家の基本的原理である。
○今の日本だと、これがちゃんと分かれてないように見えてしまっているのかも。

・自発的な服従こそが、権力を成立させる。
・学校制度により、最も効果的に、自発的服従の基礎がつくり出される。

・学校教育は、社会的上昇の道を提示することによって、個々人を国家へと直接的に結びつける役割をはたした。

・学校は、権力に自発的に服従する主体を生産する制度である。
・自発的に(自分の判断で、これこれを選択した)という自立性の外見の下で、権力に服従する主体を生産する一種の工場である。
○こうやって示されると、恐ろしいな~。学校の先生たちは、こういう機能を果たしていることに、自覚的なんだろうか。

・「見られていること」を永続的に自覚する状態をつくりだすところに、パノプティコン(一望監視施設)の特徴がある。
・学校、会社にいくことも、我々は服従と感じない。そこにこそ、権力の目の内面化の一端が存在数る。

・構造主義(または関係主義)者たちは、自己を一個の哲学者、思想家へと訓練せざるを得ない。

参考:構造主義

・大乗仏教哲学の一部が、物に対する事の根源性を説述していた。

・(産業社会になり)生産と消費が、時間的にも空間的にも分離された。
・労働と融合していた遊戯性や象徴性が剥離されて、労働者は禁欲、集中、持続、効率を旨とする勤勉(インダストリ)へと調教される。
○この「労働と融合していた遊戯性」について、もっと知りたいな~。

・20世紀後半は「労働の終焉」の時代と言えなくもない。
・労働は、かつて美的、遊戯的であった。生産活動が同時に宗教的活動にして芸術的活動であり、また遊戯的であった。
・労働は思考の源泉である。
○今村仁司先生の本「仕事」を読んでみよう!

・性は、生物進化の結果として、必然的にあらわれてきた。
・人類には「発情期(生殖期)」がない。

・時間とは何か?

・近代の最も重要な思想的遺産である自律性(Autonomy)
・「自分で自分に法を建てる」という自律性(啓蒙のユートピア)を、日常生活の現場で現実のものにすること、これこそ自主管理の目的である。

・自律は、自由、平等、連帯の3つを包みこむ上位の概念。
・他律性(Heteronomy)は、自己以外の自己の外部の超越的他者によって支配されることを意味する。

・実践とは、プラークシス(Praxis)であり、生産または労働からは区別される、公共のための活動のこと。
・プラクティスは、慣習的行為のこと。

・賃労働者が創出されることが、資本主義成立にとって不可欠である。
○生産手段を持たざる者が、持つ者のために働いてくれないと。

・資本主義は、その矛盾を、つねに自らの「外部」へと先送りする形で、自己を存続させている。問題をしわ寄せしつつ、先へ先へとつき走っている。
○これほんとそうだよな~。「我が亡き後に洪水よ来たれ」の発想。

・日本は、市民社会なき、資本主義。

・資本主義の景気循環は、蓄積/蕩尽のサイクルを経るという点では、贈与経済システムと同じパターンを内蔵している。
・一方的な蓄積再生産の肥大化が、社会生活に危機をもたらすことをしっていた。ポトラッチで蕩尽。
○こういう知恵と実践は、今の資本主義社会にはないよな~。だから、富が上位数%に集積されたままになっている。

・「祭り」は、命令された放逸。普段禁止されていることからの解放。日常的生活からの逸脱。
・「ホモ・フェスティヴス(祭り人間)」

参考:「ホモ・ルーデンス(遊び人間)」

・現在の基準で、過去を裁断してはならない。過去にはそれ特有の「心のくせ」がある。

・誰でもよい一人の人間を犠牲者に仕立て上げること、これが社会秩序形成の原理である。
・スケープゴートは、共同体の負の価値を一身に帯びることで、他の人間群を秩序=中心へと結集させる。
・必ず発動する余りにも人間的な現象。
○もしそうだとすると、クラス内のいじめはなくならないってことになっちゃうよな~。クラス内に、あえて秩序を作らずに、バラバラな多様性を残す?

・梅棹忠夫が「文明の生態史観序説」(1957)で提示。
・歴史的展開の型を決定する上で、最重要と考えられる自然環境条件によって、旧世界を、第一地域と第二地域と分けた。

参考:東大大学院時代の研究会

・神話は、しばしば不具者や病者らに、正の意味を付与する。

・トリックスターは、もう一つの現実への接近の糸口を指し示す。

参考:神話本

・組織は、成員資格に各成員のなすべき義務と課題を結び付け、成員資格の取り消しを含めた正負の賞罰を利用しつつ、成員に特定化された行動を遂行しようとする。
○これ、ほんとそうだよな~。

・岡正雄は「沈黙交易」と「異人伝説」と対比し、両者を同一の事象であると喝破。
・椀貸し伝説
○これ確か、ときがわ町の多武峰神社にもあったかも。前に山伏の瀧田さんから聞いた気がする。

・常に、カオスが、コスモスに先行する。

・毒であることを覚悟することこそ、知識(エピステーメ)の本領である。

・フォークロア研究者のグリム兄弟曰く、多くのものがたりは、元々古い神話であった。

・プラグマティズムは、人間生活の具体的事柄への配慮に従う行動の立場を表す言葉。
・「実用主義」は、不適切な訳語。
・経験は、受動的に成り立つのではなく、主体の能動的な働き、行動(プラグマ)によって成り立つ。
○う~ん、よく分からない。

参考:プラグマティズム

・カトリックにおいては、禁欲は修道院のみにおいて実践され、プロテスタンティズムにおいては、禁欲が世俗の生活においても追及された。

・人間とは、人と人との間、すなわち「間柄」。
○仏教思考で学んだ「網の目」と「網」の関係。

・対象化の概念は、西欧形而上学の生命線である。
○ ●→● みたいな感じかな。

・真理の探究なるものは、すべて一様化。
・多様性や異質性は、均質化した世界への異議申し立て。

・ヘーゲルの弁証法により、実体=主体である絶対者の高み(絶対知)に到達する。
○このあたりが、松波先生が言う「実在論」なのかも。正解があると考えるのが、西洋OS。

参考:仏教思考

・エンゲルスは「量より質への転化」「対立物の統一」「否定の否定」を、弁証法の三法則と称している。

参考:マルクス・エンゲルス本

・暴力の概念とは、第三項排除である。

・模倣欲望は、人と人との関係を暴力的にする。
・社会の中の暴力は、ほとんど例外なく、欲望(特に模倣欲望)から起こる。

・M.バフチンは、文学的言説の2つの原理である「対話」と「独語」を区別。
・ドストエフスキーの小説を、ポリフォニー的。トルストイを、モノローグ的と対比。

○語った言葉を、他者が書き残したもののほうが、長く残るのかも。孔子の論語、仏陀の経典、キリストの新約聖書等。

===

投稿者:関根雅泰

コメントフォーム

ページトップに戻る