○Kazuma企画「読書会議」の課題本(1冊+2冊)
===
『親子で哲学対話』(2024)
・「本質観取」という言葉は、20世紀に現象学という哲学を創始した、エトムント・フッサールという哲学者が使った言葉。
●参考:
・「なぁるほど、それは確かに本質的だ」と皆が唸ってしまうくらいの深い共通了解を見出しあうこと。それが、本質観取。
・「わたしに訪れた確信」をもちよる。
○「教え方」研修で行っている「教え下手と教え上手」の事例をあげながら「一言でいうと…」を考えていくのも、本質観取的な取り組みなのかも。
・本質観取のやり方
1)本質がわかると、どんないいことがある?
2)さまざまな事例をあげる
3)本質的なキーワードを見つける
4)本質を言葉にする
5)本質がわかると、どんないいことがある?に答える
・本質観取のポイントは、それぞれの主観的な確信をもちよって、共通了解を見つけ出すこと。
・本質観取の哲学対話は、6~12人ぐらいでやると、深い所までたどり着きやすい。
・反対の言葉について考えるのも、本質観取をやるときの大事なコツ。
○次男(小5)と、9月21日に「恥ずかしいとは」というテーマで本質観取をやってみた。「他人」「自分」といったキーワードが出てくる。ほんと、子供もよく考えているよな~。
===
『勉強するのは何のため?』(2013)
・「正解」というより「納得解」を求めるような問題
○この辺りは、拙著『オトナ相手の教え方』で書いたことと重なるかも。
・普通だったら途中で考えるのをやめてしまうような難しい問題を、とにかくひたすら考え抜く。
○地域について考えるのも、そうかも。「人口を増やすには?」ではなく、もっと良い問いの立て方から考えてみよう。
・一般化のワナと、問い方のマジック
・あちらもこちらもできるだけ納得できる、第三のアイデアを考える。
・絶対的な正解ではなく、自分にとっての正解を見つける。
・学力とは、とどのつまりは「学ぶ力」のこと。
・相手の自由もまた承認する必要がある。「自由の相互承認」の原理。
・学校は、自由の相互承認の「感度」をはぐくむための場所。
・すべての子どもたちに「自由」になるための力を最低限必ず保障する。それが公教育の使命。
・道徳教育のジレンマ。うさんくささを感じさせてしまう。
・最低条件は、お互い決して、暴力には訴えないということ。
===
『教育の力』(2014)
・今では、学校が新たな閉じられた「習俗」になってしまった。
・人間が戦争をやめられない理由は、「自由になりたい」という欲望を持っているから。
・一般福祉の原理(すべての人の自由を促進している時にのみ正当)は、教育政策の正当性を考え合う際の、最もメタレベルの視座。
・プロフェッショナルこそが、絶えず学び続けなければならない。
・学び続けることから「降りる」ことを許容しない。きわめて息苦しい社会。
○これがあるからこそ「戦略的休息」が必要になってくるんだろうな~。
・「よい」学びの本質は、学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の融合。
・学力の評価には、2つの目的がある
1)選抜 2)改善
・学ぶ力の正確な測定は不可能。
・今の学級性は、人間関係の流動性があまりにもなさすぎ。
○ときがわ町の小中学校は、1学年1クラス。クラス替えもなく、流動性はまさに無いな~。
・教師が信頼すべきは、子どもたちの成長。
・自分たち大人が解決すべき問題を、子供たちに託す無責任さ。
・ディベートは、問い方のマジックにかかりやすい思考のくせを子供たちに身につけさせてしまう可能性がある。
===
コメントフォーム