【木曜日23-10】安岡正篤先生関連本(9)

古典に学ぶ

【木曜日23-10】安岡正篤先生関連本(9)

○安岡正篤先生をきっかけに読んだ本。(東洋古典2冊、研究書1冊)

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『易と人生哲学』(1988、2018)

(到知出版社の「安岡正篤 活学選集」全10巻から)

・易には変わるという意味がある。
・運命を宿命にすることなく、立命にもっていくこと、これが本当の易。

・むしろ五十になったら、それだけ本当の勉強ができるので、ますます勉強をする。

・本当の運命というものは、運命の法則、理法を知って、それに従って開拓していくべきもの、自主創造していくべきmのであるというので、これを立命という。

・易は宿命の学問ではなく、立命の学問である。

・内省のない欲望は、邪欲。
・内省すれば、余計なものを省き、陽の整理を行い、陰の結ぶ力を充実させる。

・因果というのは、原因から縁によって果を生ずるということであり、いいも悪いもない自然の事実。

・陰とは、統一含蓄であり、陽は、発現分化である。これを統一発展せしめるものが、中である。

・真の易学というものが分かれば、(占う必要がない)自分の頭で判断できる。

図 六十四卦

・地天泰

・結局人間は、人にばかり求めても仕方がない、己を修めなければいけない。
・修行ができて初めて、人間は自由を得られるもの。

・易学とは、運命に関する宿命観を打破して、常に新たな立命観に立って、これを行じていくということが骨子。

〇安岡先生は、人が変わる可能性を信じている人だったんだろうな~。だから明るさ、希望を感じるのかも。

〇次は「易学入門」を読んでみよう!

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『経営に生かす易経』 竹村亞希子(2020)

〇積読だった本。上記「易と人生哲学」を読んで面白かったので、読み始めた。この本もいい!

・易経を勉強ではなく遊びのように楽しんで、継続して学んでほしい。
・手元に易経を置いておく。

・五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の順番で成立。孔子以前。
・四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」。孔子以降。

・まずはわかりやすい「四書」から読んで、難解な古典中の古典である「五経」を読んでいく。
・四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の順で読むとよい。字数が少ない順番になっている。

・大昔は、五経を学ぶことが学問であり、四書は、五経を補う参考書のようなもの。
・孔子が最終的に、易経を整理した。

・「困ったとき」だと分かったら、どうすればよいかが易経に書いてある。

・おいしいとこ取りをするために、時流に乗ろうとする。「時流に乗るものは、時流によって滅びる」

〇そういえば、20年ぐらい前に「波乗り経営」を標榜していた人って、今どうなったんだろう。

・吉と凶を分けるのは、「悔(かい)か吝(りん)か」で決まる。

・人間は、時と場合によって、善いことも悪いことも行ってしまう存在である。

・「乾為天(けんいてん)」に書かれている龍の物語。六段階の変遷過程。「潜龍」「見龍」「乾惕(けんてき)」「躍龍」「飛龍」「亢龍」

・しっかりと抜きがたい志を打ち立てることができるのが、潜龍。「潜龍元年」
・見龍が見習うべき大人は、志がしっかりして、当たり前のことが当たり前にできる人。

・美容師の見習いがシャンプーを徹底してやると、手の指に目ができるという。

・不器用な人は、教え上手。

・「終日乾乾し、夕べに惕若たり」

・耳の痛い話を遠ざけるようになったら、飛龍の時は終わる。

・「惜福」 福を使い尽くし、取り尽くしてしまわぬこと。

・積極的にライバルを作り、後進を育てることは、陰を生じさせる。

・すべてが陽からなる「乾為天」と、すべてが陰からなる「坤為地(こんいち)」という二つの卦(か)が、易経六十四卦の中で、最も基本的で代表的なもの。

・(良い)習慣の慣れは努力が必要。悪い習慣は、馴れるので、努力が不要。

・陰の時は従う。じたばたせずに、冬だから種をまかない。

・陰陽は、だんだんと変化していく。
・冬至の日は特別。心身を整えて、静かな時間を持つ。

・作り物の謙虚は、傲慢。学べば学ぶほど、自分の無知さ加減、学び足りないことを思い知って恥ずかしくなる。

・「風火家人(ふうかかじん)」 妄愛を慎み、厳君たれ。ダメなことはダメと言える規範となる律。

・変(化してこれを裁する)通(推してこれを行う)の道理によって、社会の道を整え、民を導くことを「事業」と言う。

〇この人の「易経一日一言」買ってみよう。

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『日本農士学校長 菅原兵治の思想』 川井良浩(2022)

・日本農士学校の初代校長 菅原兵治(すがわらひょうじ)(1889~1984)の思想的特質を明らかにする。

・「終戦の詔勅」の添削者、あるいは「歴代首相の指南役」などと称された安岡正篤(1898~1983)の一番弟子が、菅原。

・菅原は、金鶏学院の学監 安岡より、埼玉県比企郡菅谷村(現嵐山町)に設立された日本農士学校初代検校(校長)に任命された。33歳の時であった。

・金鶏学院は、日本農士学校の教員養成所としての機能を果たしていた。
・菅原は、安岡にとって、地方教化の任を担うべき最適任の「人材」であったように思われる。

・菅原は、彼が「最も質の優れた」時代だとみなした鎌倉時代を理想視していた。
・安岡は、鎌倉武士の模範的人物と称された畠山重忠の館跡(菅谷城跡)に日本農士学校を設立。

・安岡は戦後に「わたしのやったことの中でこれだけは意味があったと自信を持って言えるのは、農士学校を作ったことだった」と述懐したのも、育成した弟子や孫弟子たちが、テロやクーデターに象徴されるような急進的、暴力的、非合法的は変革の路線に走ることなく、地域の有力者(農士)として、安岡や菅原の教えを忠実に実践していたからであろう。

・日本農士学校は、奨学金があればともかく、経済的に裕福な農家の子弟でなければ、入学は困難であったように思われる。
・単なる農村指導者というよりは、将来町村長となって一町一村を導くに足る人物の養成を心掛けていた。

・農村の問題を、単純に道徳の問題として捉え、それをひたする「日本精神」で乗り越えようとする状況と同時に、現実を無批判に受け入れざるを得ない精神的土壌だけが培養されていくことになる。安岡や菅原が意図した点はまさにここにある。

○こういう意見が、書籍として出るのは、いいことだよな~。批判的な意見も大事。

・菅原の思想の重要な構成要素の一つが、社稷思想。
・社稷は、昭和期を代表する農本主義者の一人である権藤成卿の思想の重要な構成要素の一つとしても知られている。

・安岡は、権藤の思想的共鳴者を「低脳」だと酷評していた。

・権藤の社稷論には、民衆に対する信頼感(性善説)や楽観論があった。
・これは「君子」による道徳的教化を抜きにして「小人」である民衆は治まることはないという抜きがたい愚民観(性悪説)を表明していた菅原や安岡との決定的な違いである。

・菅原は、社稷よりも、天皇のほうを絶対視していた。
・菅原と権藤の思想は、一面では孟子の民本主義思想を、いかにして受容してきたのかという、いわば日本における『孟子』の受容史の一角に位置付けることができる。

○こういう「位置づけ」ができるのが、やっぱり研究者の凄さだよな~。

・天皇に至上の価値を置いた天皇制イデオローグとしての安岡にとって、天皇よりも「社稷」を絶対化しようとした権藤の社稷思想は、危険思想以外の何ものでもなく、到底許容できる代物ではなかったと断言しておきたい。

・日本農士学校は、農村のエリート、すなわち農士の養成機関であった。(金鶏学院の講師を一時期勤めていた)権藤には、こうした発想は全くなかった。

・1930年代以降において、安岡が、北一樹と「提携」した史実はない。

・日本農士学校を卒業後、同校の教員となり、戦後は新自治協会の常務理事を務めた柳橋由雄。

●参考:『論語と経営』柳橋由雄(1998)『儒学に学ぶ経営の心~修己治人』柳橋由雄(1990)
https://www.learn-well.com/blog/2022/05/yasuoka-masahiro-sensei3.html

・長野朗(1888~1975)は、安岡や大川周明らと一時期行動を共にしたことがあった。
・その後、彼らとは袂を分かち、権藤の指導のもとに、合法的な「下からの大衆的農民運動」の路線へと自らの立場をシフトさせていくことになった。

・長野が強調した「熟議談合」とは、直接民主主義の原理にもとづく集会の概念に近いものであって、間接民主主義の原理にもとづく代議制民主主義とは、性格を異にするものであった。

・農村自治の確立を推進すべき主体を農民のどの階層に求めていたのか。
・菅原は、農村のエリート層に求めていたのに対し、長野は農民大衆こそが主たる担い手になるべきだと考えていた。

・権藤は、「人を以て人を治むること」はできない。「汝を救うものは汝」であると言う。

・菅原は、報徳思想を、天皇制国家および当時の支配者層に都合の良いように換骨奪胎したイデオローグに一人であったのである。

・「安岡、加藤完治(日本国民高等学校 校長、満蒙移民の父)は、日本農村指導の両横綱だ。そして、農民道場というものは全国に43ほどあり、42は加藤先生の弟子でうずまっていた」
・「強固な信念と超人的な実行力を誇る加藤先生に比べると、安岡門下生は、名文句を並べるのは一流だが、実行力となると三流だ」というのが、当時の農民道場系の一般通念であったらしい。

・菅原は、支配層にとって極めて都合のよい思想家、御用学者としての側面をもっていた。
・安岡は、日本の対外膨張政策を、「皇化」「皇道」「義戦」などと称して、美化、正当化したのである。
・菅原がいう「質」の原理の極端化こそが、日本を敗戦においやった元凶であったことは言うまでもない。

○この先生の書籍『安岡正篤の研究』(2006)も読んでみよう。

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投稿者:関根雅泰

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