【木曜日22-6】「聖書」本

木曜日

○山本七平先生の「空気の研究」の解説で、日下公人先生が「聖書の旅」を薦めていたので、そこから「聖書本」へ。

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『聖書の旅』 山本七平(1981、1991)

・エルサレムの娯楽は、議論しかない。勝とうが負けようが、怨念が残らず、勝敗を楽しんでいるという点では、まさに言葉の牌のやりとりである。

・白人系のPLShT(ペリシテ)なる名が、実はパレスチナという言葉の語源。

・ある一つの文化を維持していれば、その民族は存在し、それが消えれば消える。

・すべての論説が世界の批判に耐えねばならぬ「国際化」の時代は案外近いのかもしれない。

・イスラエルは神との契約が絶対だから、「周囲がこうしているから、その通りにしてみよう」とは、絶対に言ってはならないのが原則である。

・歴史は常にそれが記された時代の産物であり、反映しているのはその時代である。

・「ウルガタ版ラテン語聖書」で、カトリックの公認本分であるこの版こそ、西欧を形成してきた貴重な柱の一つであり、その影響は計り知れない。
・ミケランジェロのモーセ像には、二本の短い角が生えている。これは(ウルガタ版に書かれている)「QRN」をヒエロニュモスが「角」と誤訳したため。

・旧約聖書には、聖人は登場せず、理想化された人間は一人もおらず、ダビデも例外ではない。

・イスラエル軍では、ネゲブとシナイでの勤務は1か月を限度として順次に交替させている。理由は、それ以上いると、一般社会に復帰したときに対人関係がおかしくなるからだという。
・生活体としての人間はさまざまな異臭を発している。人間は群を形成する動物であり、その中にいてこの臭いをかいでいないと、おかしくなるのかもしれない。

・応答しないということは、ベドウィンへの最大の侮辱。言い合いはむしろ親愛の情。
・荒野の民にとっては、おしゃべりがレクリエーション。

・要害(チィヨン)がギリシャ語に転写されてシオンとなり、シオンと発音すればへブル語では「荒廃」の意味になる。

・聖書の民という弁証法の民は、繁栄の追求が、滅亡を招来するという逆理の中に、歴史の背後にある神の摂理を、いわば絶対者の支配する必然を見たのである。

・「聖書とは全く変な本ですな」と言う人がいれば、この人は本当に聖書を読んだ人であろう。

・「キリスト」という言葉への欧米人の反応には、ある種の愛憎両端(アンビバレンス)ともいうべきものがある。

・キリスト教徒(クリスティアノス=クリスチャン)は、「親切な者(クレステイアノス)」が訛ったものとみるのが普通。

・「人は神とカネに兼ね仕えることあたわず」とイエスは言った。
・精神を継承するなら財産は棄てねばならない。財産を継承するなら精神は棄てねばならない。

・何か(神)を絶対化することは自己の生き方を絶対化し、それが絶対化するためには、全てが許されることになってしまう。
・絶対主義は、しばしば徹底した虚無主義になる。

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『新約聖書の誕生』 加藤隆(1999、2016)

・神が民を見捨てたと考えてもよいような状況が生じたにも関わらず、民は神を見捨てなかったのである。
・「古代イスラエルの宗教」は、数多くの標準的な古代の民族宗教の一つではなくなり、他に類を見ない独自な存在となった。現世での状況が絶望的であるにも関わらず、自分達の神に忠実であるというまったく新しい事態が生じたのである。

・ユダヤ教の人間観

・地上のイエスが、短い公活動の間に中心的に取り組んだのは、ユダヤ人社会内部の差別の撤廃の問題であった。

・弟子たちの絶対的な権威は、彼らがイエスの言動の直接の証人であるということに依拠していた。
・このため弟子たちには、同じような権威をもつことができる後継者が存在しないということになってしまう。

・マルコ福音書は書かれた文書である。読む能力がなければ、情報を自分のものにすることができない。弟子たちの権威は、知識の独占にもとづいたものであった。
・一部の者がが、他の者に対して権威をもつという構造自体は変化していないのである。

・ヤコブの権威の根拠は、イエスとの血のつながりである。

・「信じれば救われる」という考え方においては、人が神を人に服従させている。
・「信じる」ということは「忠実になる」ということである。

・創世記一章の「人間創造」の中で、二つの相いれない物語が並べて記されている。
・聖書の権威を認めるならば、聖書にしるされていることはどれも本当である。しかし同じテーマについて対立する内容の二つの物語のどちらも本当だということはあり得ない。
・とするならば、権威ある聖書の立場は、どちらも本当ではない立場だということになる。
・つまり聖書は、人間の創造の様子については「分からない」と述べている。

・パウロは「聖書には権威がある」とされている状態を利用する。

・(キリスト教が)ユダヤ教から分離してしまった状況において、ユダヤ教の聖書をどう位置付けるかについて動揺が生じてきた。

・権威の3つの根拠:聖書(ユダヤ教から伝わった聖書)、主の言葉、使徒の宣教

・グノーシス(知識)主義は、「良い世界」と「悪い世界」を想定することによって「悪」の問題を解決しようとした試みと言える。
・「良い世界」の一部が「光の粒」として人間に含まれている。

・新約聖書は、テキスト全体の内容を統一的に理解することなど不可能な文書集である。
・しかし一つにまとめられている姿は、テキスト全体の内容の統一的理解に達することが求められているかのような「雰囲気を作り出している」のも確かである。
・無限の距離は、神と人との隔たりにふさわしいかのように思われやすいし、それは新約聖書をめぐる権威の高さ、強さを示すものであるかのように受け取られやすい。

・新約聖書を成立させることが、教会全体の統一と秩序実現のために有効だった。

・新約聖書の使用方法が前提としている社会構造が西洋的。
・西洋的社会構造は、支配的。
・「西洋的」であるとは、人間を本質的な意味での上下の序列に組み込んでいるということ。

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『The New Oxford Annotated BIBLE』(1962, 1991)

○アメリカに留学していた頃(1990年3月~1996年12月)に、2年制大学(MGC Community College)から編入した4年制大学(University of Southern Mississippi)の文化人類学の授業(たしか「宗教論」)で、先生に「英語版の聖書ならこれが良い」と薦められて買った本。

・旧約聖書と新約聖書の目次

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投稿者:関根雅泰

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