「就社」社会の誕生 ~ホワイトカラーからブルーカラーへ

お薦めの本

「就社」社会の誕生 ~ホワイトカラーからブルーカラーへ
  菅山真次 

○明治から平成に至るホワイトカラーのブルーカラー化の経緯

(・引用/要約 ○関根の独り言)
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●序章
・「就社」という常識は、1950年代以降の高度成長の過程において作られた
・農業人口が急激な減少を開始して、日本が「雇用社会」へと急速な変貌を
 遂げていくのは、1950年以降のことである。
・高度成長のエンジンとなった製造業大企業では、1950年以降になってはじめて
 「日本的」雇用慣行が現実のものとして定着しはじめ、それとともに定年ないし
 定年近くまで一つの会社に継続勤務するという働き方が、大卒のホワイトカラー
 だけでなく、中卒、高卒のブルーカラーに至るまであまねく広まっていった。
・本書は、「就社」社会日本の歴史的成り立ちを、これを特徴づける慣行や制度
 に注目して「ホワイトカラーからブルーカラーへ」をキーワードとして解き明かす
 試みといえる
・本書は、以下の3点でこれまでの労働問題研究の延長線上には止まらない
 1)学歴主義への注目 2)企業と学校のリンケージへの注目 
 3)企業システムへの注目 
●1章 歴史的前提 ‐産業化と人材形成
・19世紀の熟練労働者は全国の大工場や中小、零細工場をまたにかけて「渡り」
 によって腕を磨いていくのが典型的なキャリアパターンであった
・A.ゴードンは、初期の工場労働をめぐる社会関係が、日本と西欧で多くの
 共通点をもっていたことを強調した。
 産業化の初期段階では、西欧でも日本でも経営者や技術者は、工場現場で
 立ち働く何百人という労働者を管理する十分な経験をもっていなかった。
 そのため「親方労働者」の権威と力量に頼らざるを得ず、しばしば彼らに
 仕事をアウトソーシングした。
 ●大工場労働者と熟練形成
・産業化の時代における日本の熟練労働者は、一応の閉鎖性と内的規制力を
 備えた社会集団として存在していたが、その閉鎖性の度合は概して弱く、
 他の諸階層との人的流出入も決して例外的であるとはいえなかった。
○これが後半の「クラフト的規制がない」にもつながってくるのかな。
・官営製鉄所においては、「遠い職場」への移動も含めて、要員管理の手段として
 配転が頻繁に実施されていた。
・西欧との対比でみた場合、日本の特徴は、職場の協業集団の自律性がもともと
 弱かった上に、早期から急激な官僚制化の傾向が進展したために、むしろ
 間接的管理方式が十分に根付かなかった(点にあるのではなかろうか)
 ●職員層の形成
・近代産業の担い手としては、企業内における地位ないし身分という観点から
 経営者、職員、労働者の3つのグループを区別することができる。
・第一次大戦を境に本格的な発展を遂げた労働運動の主たる要求は、労働者を
 人間として扱え、というものであった。
 これに対して経営側は、これまでの「役員」と「職工」という一対の概念に
 かえて、労働者をひとしなみに「従業員」と位置付けることで対応した。
・「職員」層は、近代日本の「労働者」にとって、目標となるべき準拠集団を
 なしていたとみることもできよう。
 小池和男によれば「ブルーカラーのホワイトカラー化」とも呼ぶべき特徴は、
 労働運動の成果として獲得されたものという側面が強いのである
○職員層=スタッフ人材=ホワイトカラー
・官営製鉄所職員には、職人あるいは労働者からの叩き上げがほとんど見られず
 また商業使用人からの入職もごく限られていた
・ホワイトカラーは、旧支配層の士族から主に供給された
 明治初年においては、近代セクターを構成する官僚的組織の職員層は
 ほとんど士族出身者によって独占された状態であった
・1880年頃には(職員層への)平民層の進出が顕著になりつつあった
・1900年頃には、職員として企業に入職するための知的訓練を行う学習の場は
 「正規」の学校以外にも多様な広がりを持って存在していた。
●2章 「制度化」の起源 ‐戦間期の企業、学校とホワイトカラー市場
 ●新規学卒採用の「制度化」
・技術者の採用は、多くの企業にとって事務系職員の場合と比べてより困難な
 状況にあったと推測される
・三井銀行では、19世紀のうちは中途採用が多かったが、採用数が極端に
 絞られた1901年から07年までは新卒採用にほぼ限定され、08年以降も新卒採用
 率は高水準で推移した
・三井物産では、19~20世紀転換期に学卒者の大量採用が始まり、1912年の人事課
 の設立が画期となって、「新卒定期入社システム」が確立した
・事務系の職員を中心とする金融、流通部門のトップ企業では、ほぼ20世紀初頭が
 転換点となり、1910年前後に新規学卒採用制度が確立したとする
・森川仮説=学卒者に対する企業の需要はまず技術者に集中し、次に事務系に移る
・マクロな新規学卒者の需給関係が、20世紀はじめの30年間で不足から過剰へと
 大きくシフトした
・第一次大戦を境に中高等教育機関の大増設が行われる一方、1920年代~30年代初頭
 の長期不況下にあってホワイトカラーの需要が伸び悩んだため、特に20年代後半
 以降、学卒者の就職難が極端に深刻化した
 「大学は出たけれど」という小津安二郎の映画がヒットしたのは、昭和恐慌が
 勃発した29年のことであった
・官営製鉄所における新規学卒採用の展開過程は2つの局面にわかれる
 
 1897年~1919年 学校に求人を依頼 採用者の選抜は学校にゆだねられていた
 1925年頃~33年 学校から推薦された候補者を更に厳しくふるいにかける
・苅谷=ローゼンバウム仮説
 企業と学校の制度的リンケージがいかに発生するかを、取引コストの経済学を
 援用しながら考察
 企業は制度的リンケージを通じて、その取引相手から供給量、スキルのタイプ、
 質の3点にわたって、信頼できる労働力の提供が行われることを期待している
 
 こうした期待へのニーズがとりわけ高い場合に、企業と学校の制度的リンケージ
 が発生すると考えられる
・1920年代後半は「学卒」技術者の確保策として始まった学校とのリンケージが
 ホワイトカラーの採用管理の中核に位置する「制度」へと進化を遂げ、今日まで
 連綿と連なる新規学卒者の定期一括採用方式が確立する、まさにそうした転換期
 として位置付けることができよう
 ●学校による就職斡旋とその論理
・戦後日本の学校は、教育活動の一環として、卒業後の進路の指導を行うことを
 自明としてきたし、さらに自ら就職を斡旋する主体として行動することを
 ためらわなかった。社会や企業もそれを「当たり前のこと」として受け入れてきた
・国際的には異例ともいえる慣行、制度
・教育的な情熱に支えられた学校当局による企業への組織的働きかけこそが、
 学校卒業が間断なく就職へとつながる仕組みを現実のものとした
・多くの企業は学校の選考をかなりの程度まで尊重し、事実上従業員の選抜を
 学校の委ねていたのである
・日立、鶴電のような企業は、毎年コンスタントに採用行うことと引き換えに、
 鶴岡工業から自社のもとめにぴったりで、それゆえ長く勤続する、学業成績
 の優秀な労働力を確実に推薦してもらうことを期待できた
 これは苅谷=ローゼンバウム仮説に合致する
・アメリカでは、企業があらかじめ選抜した特定の大学や大学院に出向いて、
 新規学卒者を採用する、キャンパスリクルートメントが行われている
・英米ではもっぱらエリート大学卒ないし大学院卒の採用をめぐって、企業と
 学校の制度的リンケージや定期採用の慣行の存在が報告されている
 対照的に、高卒に関しては日本の場合とまったく違って、卒業生の就職に
 学校が組織的に関与することはほとんど見られない
●3章 「日本的」企業システムの形成 ‐戦争と占領下の構造変化
 ●「日本的」雇用関係の形成 -就業規則、賃金、従業員
・R.ドーア「イギリスの工場、日本の工場」
 イギリスならミドルクラスの職員に限られている特権が、
 日本では現場労働者にまで適用されている
・小池和男は、日本と欧米諸国の雇用慣行を比較可能なマクロデータに基づいて
 吟味し、日本のブルーカラー労働者と欧米のホワイトカラーのスタッフとが、
 年齢、賃金プロフィール、勤続年数別構成、企業福祉費の割合等について
 近似していることを発見した
・ブルーカラー労働者の賃金の「ホワイトカラー化」は、戦争末期にかなりの
 進展を見せた
 しかし、ブルーカラー労働者の賃金は貧しさを共に分かち合うという形で
 「ホワイトカラー化」したのであり、その限りでむしろホワイトカラーの
 「ブルーカラー化」という側面をもっていた
・労使決戦の天王山となった1950年の大争議。5,555名の大量解雇という組合の
 惨敗に終わったこの争議によって会社側の優位は揺るぎないものとして確立し
 経営陣はほぼ望むとおりの改革を実施することができた
・他方、職場の中ではかつてのような権威主義的な管理は影をひそめ、身分制度
 下の職員‐工員関係とは異なる「民主的」な人間関係が確実に根をおろしていった
・敗戦後に再編成された企業内の学歴主義的秩序は
 労使の合作という側面をもっていた
・企業と学校のリンケージを制度的基盤とする、ブルーカラー労働者の定期採用
 方式が確立したのは、1960年代に入ってからのことである。その起源は新しい。
 ●「企業民主化」-財界革新派の企業システム改革構想
・1946年 経済同友会による「資本と経営の分離論」
・戦間期の事業家は、一城の主。今日の経営者は、サラリーマン重役
 今日の大企業の経営陣は、ほとんどすべてがホワイトカラーからの内部昇進者
 =サラリーマン重役によって占められている
 日本企業はトップマネジメントの面でもホワイトカラー化したのである。
・敗戦後、GHQの指示により、財閥が解体され、大会社の首脳陣は一掃された。
 部長クラスが社長になるという三段跳び人事が実施された。
●4章 「企業封鎖的」労働市場の実態 -高度成長前夜の大工場労働者と労働市場
・標準的なキャリアパターン:学校を卒業後直ちに企業に就職し、定年ないしは
  定年近くまで同一企業に継続勤務するという働き方
 兵藤は1920年代がそうした日本的なキャリアパターンが形成される、歴史の
 重要な分水嶺となったと主張。
・敗戦後、GHQの民主化政策のバックアップを受けて労働組合運動が飛躍的に
 成長を遂げた
・氏原正治朗は、日本の大企業セクターの労働市場が企業封鎖的な構造をもつ
 ことを主張した。
・一般に労働者のキャリアが主に一企業の内部で展開されるか、それとも複数の
 企業にまたがって横断的に形成されるかは、職種の性格によって大きく左右
 されると考えられる
・巨大な設備、組織は企業ごとに異なるため、それぞれの企業に特有な技能が
 形成される傾向がある 例)鉄鋼業など装置産業の基幹職種
・技能工を、プロセスワーカー、オペレーター、熟練労働者と3つの職種群に分ける
・戦後の採用管理の特徴の一つは、職安、学校の利用が顕著に増加したこと
・戦前からの伝統的な慣行では、新規募集がなされるときには役付工が積極的に
 動き、縁故者とくに郷里の親戚知人を斡旋するのが通常であった
 戦後は一転してプロセスワーカーの募集、採用は主に職安経由で、職安係員の
 立ち会いの下、行政側の定めた画一的な手続きに則って行われるようになった
・労働者がたどった職業経歴は、職種によって大きく異なるというシンプルな事実
・プロセスワーカーについては、職種別労働市場は未発達で、キャリアの形成は
 もっぱら企業の内部でOJTによって行われた。
 現場で見よう見まねで覚えるしかなかったと言える。
○「企業特殊スキル」はOJTで、「一般スキル」はOffJTで。
 (と簡単には言えないかな。一般スキルもOJTで身につけているケースも多い)
 その企業に長く留まり、企業特殊スキルを形成しなくてはいけない場合は、
 OJTが有効。
 会社を渡り歩く場合は、OJTは有効では無い。
 (とは言えないな。ある会社で先輩営業に同行して学んだことは、
  他の会社でも活かせる。でもこれも「ポータブルスキル」だから言えること。
 「ポータブルでない知識、技術=その企業でしか活かせない 企業特殊スキル」
  
・一般に銘柄が明確で、個々人の仕事の範囲がはっきりと定義される職種では、
 外部労働市場の力が発揮されやすく、労働者のキャリアは複数の企業にまたがって
 横断的に形成されるのが通例である。
 それに対して、巨大な設備や組織と協業する性格が強い職種では、内部昇進制が
 発達しやすく、労働者のキャリアは一企業の内部に封鎖化される傾向を持つ
・大工場労働者のキャリアは、氏原の主張とは違って、職種=仕事の性格に
 依存するところが大きかったのである
・J.アベグレンが、1958年に「終身雇用 permanent employment system」
 という言葉を世に広めた
・学校から職業への間断の無い移動が、大卒者のみならず一般大衆にまで広がった
 のは、1950年代以降、大量の若者が農村から都市へなだれを打って移動していく
 そういした歴史的な構造変動の最中においてであった
●5章 「間断のない移動」のシステム -戦後新規学卒市場の制度化過程
 ●中卒就職の制度化 -職業安定行政の展開と広域紹介
・1950年代~60年代
 農村から都市へ向かう 安価でかつ適応力の高い若年労働力が、製造業を
 中心に労働市場に大量に供給されたことこそが、日本の高度成長をささえた
 重要な要件
・新規学卒労働力の激しい地域間移動を媒介するとともに、その全国的な
 需給関係を「調整」する役割を担ったのが、職安行政の広域紹介システム。
・日本における公共職業紹介制度の発展の基礎を築いたのは、無料職業紹介を
 行う公営職業紹介所の設置を定めた1921年の職業紹介法である。
・1950年代には全国レベルの「全国需給調整会議」
・1951年には、朝鮮戦争の特需ブームの中で求人数は一挙に跳ね上がった
・1960年代に入って日本経済が本格的な労働力「不足」経済へと転換する中で、
 労働省が新規中卒労働力の「強力な需給調整」に乗り出し、そのための手段
 として新たに「需給調整要領」が策定された
 要領では、年間計画の早期化、画一化が促され、積極的な求人指導の実施が
 うたわれた
・職安行政にとって黄金時代は長くは続かなかった
 1960年代後半になると、高校進学率が急伸したために、中卒就職者数自体が
 激減しはじめたからである
・「金の卵」となった中卒就職者のほとんどが職安の手で確実に就職していった
・新規高卒者の就職に対しては、職安行政のコントロールはほとんど 
 及ばなくなっていた
 ●中卒から高卒へ -定期採用システムの確立
・職場への定着を進めることで、青少年の不良化を防止しようとする
 考え方が職安行政の基本的な立場であった
・労働省が定着一本やりの方針を転換して、転職を適職探索のプロセスの一環 
 とみなす考え方もあることを認めたのは、1973年のこと。
・年少者が学校を出たあとに生じうる「すきま」を出来るだけ排除することで、
 「少年不良化」の温床となることを防ぐ
 こうした危険な空白を生ぜしめない方法、それが若者を学校に囲い込むことであり
 彼らを職業に定着させることであった
・1960年の時点では、大企業こそ中途採用が中心であった
・日本の雇用関係を際立たせているのは、キャリアディベロップメントの観点
 から見て適職探索の時期にあたる、青年期における離転職水準の低さに
 他ならない
●終章 
・「間断のない移動」の仕組みは、学校と企業の継続的取引関係を制度的基盤と
 している
・従来、日本における内部労働市場の歴史的形成に関する研究では、ホワイトカラー
 が取り上げられることはほとんどなく、分析の焦点はもっぱらブルーカラー
 労働者の雇用関係の解明に向けられてきた
・20世紀初頭の日本で、最初はホワイトカラーの上層を対象に発生した制度が、
 両大戦間期にホワイトカラーの中、下層へ、そして第二次大戦後には、
 ブルーカラー労働者へと絶えず段階的に下降し、拡延されていった
・「ホワイトカラー化」の原動力となったのが、戦後の労働組合運動であった
・武士の家の出身者にとって、「文書の世界」であるホワイトカラージョブへの
 参入は他の社会層に比べてアドバンテージがあった
・日本におけるホワイトカラーの形成は「教育」という社会的資源の存在によって
 大きく支えられていた
・日本における人材形成の基本的パターンは、西欧とは明らかに異なっており、
 それは産業化のタイミングによるだけではなく、「クラフト的規制」の欠如や
 「教育」という社会的資源の存在など、近世以来の伝統によって大きく規定
 されていた。
・「就社」社会と呼ばれるにふさわしい現代日本社会の「制度」は、近代以前から
 連綿と受け継がれてきた以下の「伝統」の強い影響力のもとで形成されてきた
 1)入職規制、資格制度の欠如
 2)学校、教育への社会の信頼
 3)企業と有機的組織体と見る考え方
 4)行政の大幅な介入
●あとがき
・面白くなかったら、社会科学とはいえない
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投稿者:関根雅泰

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