【木曜日23-25】「畠山重忠公」本

木曜日

【木曜日23-25】「畠山重忠公」本

○埼玉県比企郡ゆかりの偉人 畠山重忠公に関する本(教養本6冊)

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『畠山重忠 武者の世を創った漢』 田口悠二郎(2021)

・大力無双の荒武者と言われながら繊細な笛を奏で、体中に活気を漲らせていたかと思うと、ふいに世捨て人のように沈み果てる。(妻の結衣)

・天与の武略の才をもち、風雅の道にも通じている。欲というものが欠落。坂東の諸将がなぜか畠山重忠には好ましい気持ちを抱いているのも、やつらのありたき姿を映しているからかも。(大江広元)

・畠山庄司重忠は、生まれつき竹を割ったように清々しく、正直者であることは、われら誰もが知っていること。(結城朝光)

・重忠は、菅谷をはじめ、畠山郷の寺社の再興、修復に本腰を入れていた。満福寺、いぐら神社、総持寺。

・結衣の再婚相手は、坂東源氏の名流 足利義統(よしむね)。
・彼は「豪勇畠山重忠どのの家名を継げるは、部門の誉れ」として、畠山の家名を継いだ。
・この後、畠山家は、鎌倉の世を支える名族に育ち、その後室町の世を迎えて、管領家となるまでに至った。

○一挙に読める小説。畠山重忠公を知ってもらう良い1冊。

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『中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流』 清水亮(2018)

・畠山重忠は、家格、勢力ともにトップクラスの有力東国武士である。
・重忠のような立場、力を持つ武士なら、このような発言、態度はありえるだろう、と当時の人々が考えていたことが「吾妻鏡」「平家物語」から読み取り得るのではないか。

・秩父重綱の末子 厳耀(ごんよう)が、武蔵屈指の観音霊場である比企郡慈光寺の別当になっている。

・重忠は、1164年に誕生した。17歳で初陣。
・重忠らが、頼朝のもとに参陣したのは、1180年10月4日。

・河越重頼が失脚した結果、重忠が勢力の拡大を実現。
・鎌倉街道上道が、河越ではなく、大蔵・菅谷を通るコースで整備された。

・頼朝と重忠の関係は複雑である。頼朝は重忠を警戒する一方、その実力と文化的素養を評価していた。
・重忠の行動、発言には、頼朝の意向を忖度しない自立性を見出すことができる。

・重忠は先陣にふさわしい姿、所作を都の人々にも披露していたのであろう。

・てづくねかわらけを使用した宴会は、周囲の武士たちを統合する場になっていたと考えられる。


・畠山氏は、大型の在地領主と評価することが可能であろう。

・足利義純(よしずみ)が、畠山重忠の後家(北条時政息女)と結婚し、畠山氏の始祖泰国(やすくに)をもうけている。源姓畠山氏の登場である。

・重忠は、おそらく正直、廉直で誇り高い人であった。
・東国武士社会でも有数の有力かつ格の高い家に生を受けたことが、重忠が自身の誠実さ、誇り高さを貫く支えの一つになっていた可能性が高い。

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『雄鷹(ゆうよう)たちの日々 畠山重忠と東国もののふ群伝』 斉東野人(2017)

・源経基(つねもと)が、城を構えたと伝えられるのが現在の埼玉県鴻巣市で、平良文(よしふみ)の熊谷氏とは目と鼻の先の距離。源平どちらの武門も、発祥の地は、東国、北武蔵ということになる。

・武士にとって先陣を命じられるほど名誉なことはない。それに、平家側有力氏族の嫡流(畠山重忠)が、頼朝軍の先陣に立てば、他の平家方は彼にならう。

・いかに政子でも、重忠は手の出せる存在ではなく、重忠のニ君に仕えずの心構えも認めざるを得ない。

・真っ向からの異見具申は、重忠の真骨頂であった。

・畠山殿ほど心に裏表のない忠勇の士はいない。畠山殿を信じずというなら、他の御家人の誰を信ずべきというのか(和田義盛)

・慈光寺の住職 厳耀(ごんよう)は、畠山重忠の大伯父
・丹党と児玉党

・『吾妻鏡』には、1196年~1199年の三年1か月分の記述が無い。おそらく、頼朝の死の詳細が記述されていたのでは。

・重忠の享年42。

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『人物叢書 畠山重忠』 貫達人(1962)

・『吾妻鏡』の編者が、重忠を美談の主として記述したことは、動かせない事実。

・重忠が生まれたのは、1164年、川本町大字畠山。

・重忠は、絶対音感が確かであり、すぐれた音楽的才能の持ち主であったことを示す話。

・ひよどりごえで、重忠が馬を背負った話は、作り話である。

・江戸時代の作品では、景時が悪玉、重忠が善玉として描かれる。
・景時が不当に悪く評価されているのであれば、重忠が不当によく評価されている可能性もある。

・北条氏は、武蔵の国をがっちり掌握したいと考えていた。
・武蔵の国の邪魔者を、時政は一掃したいと焦っていたので、この時、強引に重忠を殺す段取りをつけたのでは。

・重忠を悪く言っては、いやよく言わなくては、武蔵の人心を収攬することができなかった。

・日影の真光寺の開基は、重忠。

・重忠の話は、人のお手本になるようにできている。
・誠実で思いやりがあるということは、忠恕である。

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『畠山重忠 辞典』

https://www.city.fukaya.saitama.jp/material/files/group/60/sigetadaziten_20221213.pdf

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『慈光寺・霊山院・正法寺コース』都幾川村教育委員会(1992)

・鎌倉時代、源頼朝から、田畑千二百町歩の寄進のほか、手厚い保護を受けた。

・講堂、開山堂、鐘楼、僧坊が、修学道場の基本施設であった。

・「吾妻鏡」の文治五年(1189)六月の条に「源頼朝が奥州藤原氏征伐の戦勝祈願のため、慈光寺に愛染明王像を送り、祈とうの本尊となさしめた」との記事がある。

・観音堂 本尊厨子の左奥に、十一面観音菩薩立像が安置されている。これは、畠山重忠の念持仏といわれ、像の高さは、重忠と同じ身長と伝えられる180㎝ある。

・正法寺に、畠山重忠が、十一観音を奉納した。
・畠山重忠との関係は、正法寺の略縁起にも詳しく記されている。

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『であいふれあい文化財』都幾川村教育委員会(1992)

・霊山院では、二世良空(りょうくう)が、西平の正法寺や全長寺、瀬戸の皎円寺などを開いて、宗派の拡張に務めた。

・西平、奥畑の武藤家は、かつて慈眼坊(じげんぼう)と呼ばれた外秩父地方の本山派修験道場であった。

・木曽義仲の家臣と伝えられる明覚郷の三氏(荻窪、市川、馬場)と小川町大河郷の四氏(横川、小林、加藤、伊藤)が、流鏑馬を奉納。地元の坂本家と宿組の人々が馬場作りを受け持っている。

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投稿者:関根雅泰

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