「メディア文化論」

お薦めの本

「メディア文化論」
  吉見 俊哉

○メディアとは何なのか、メディアが人々に
 どんな影響を及ぼしてきたのかがわかる。

(・引用/要約 ○関根の独り言)
●方法としてのメディア
・メディア(media)は、ラテン語 medium mediation から
 派生した言葉。
・メディアは媒介する
・物質的、心的、宗教的な媒介までを内包するメディア
・19世紀の終わりごろまでには、現代につながるほとんどの
 メディアテクノロジーの原型がすでに登場し始めていた。
・19世紀に、日刊新聞が誕生。
・写真から映画に至る「複製技術」の発達が、芸術作品が
 帯びていた「いま ここに」しかないという1回性、
 すなわち作品の「アウラ」を消失させると、ベンヤミンは警告した。
・1920年代以降、我々は自分の身の回りに、メディアに
 媒介されていない「生の現実」があるなどとは考えることが
 できなくなっている。
・世論を組織化し、それに形態を与える中心的期間としての新聞
・新聞の言説は常に「他者」についての語り
・ジャーナリズムは、イデオロギーのひとつのエージェント
・1940年代あたりまでのマスコミ研究では、
 送り手がいかなるメッセージを送れば、受け手を説得できるのか
 といった「操作的なまなざし」が中心であった。
・1940代以降60年代までは、「限定効果モデル」
 マスメディアの影響は、意外と小さい)が主流。
・根底には、自律的な個人の水平的なコミュニケーションによって
 社会がなりたつという多元社会論的なモデルが横たわっている。
○理論を打ち出した人自身が前提としている
 「ものの見方」も考えないとなー。
・1970年代以降、限定効果モデルの批判がでてきた。
 「マスコミの議題設定機能」
 テレビや新聞は、人々が何について論争すべきなのか、
 いったい何が問題なのかを規定できる強力な力をもっている。
 ある問題を巡ってはすさまじい論争が巻き起こるが、
 ある問題は人々の視界をはずされてしまう。別の論点を舞台からはずす。
○これは確かにそうだよなー。特に、TVが取り上げる話題が、
 どの局も一緒になるとき、逆に言えばそこでとりあげられない話題、
 ふれられたくない話題が背後にあるってことかもしれないなー。
 新聞も一緒だな。
 マスコミが大騒ぎしているとき、それでも良心的に
 小さく報じられている内容の方が、実は大事だったりするんだろうなー。
・マスメディアの特定のメッセージが人々の態度を
 一変させないとしても、徐々に一定の社会認識を
 「培養」している可能性は否定できない。
・メディアの効果を条件づけているのは、受け手のメディアへ
 の依存度であり、それはさらに社会の不安定性、安定性と関係している。
・メディアは、伝達の中立的な媒体ではないとした
 マクルーハンの「メディアはメッセージ」
・幾何学的な図形の理解、形式論理的な推論、事象の定義、自己分析
 などは「書く」という技術によって初めて可能になった思考の地平。
○「書く」ことがなかったら、こういうものの考え方そのものが
 なかったっていうことかー。面白いなー。
・メディアの変容は、世界を思考する技術の変容にほかならない。
・ポスターは、電子の文化を、文字の文化とも口承の文化とも
 決定的に異なるものとしてとらえた。
・電子の会話は、独白的で自己言及的。
○BBSでの学びを「文字の文化」を前提として考えると、
 見誤るのかも。
 電子の文化にせよ、そこに学びがあるのならいいのかな。
 BBSは単純に「書く」ものとしてはとらえられないのかも。
・自動車やテレビは、「移動する私的空間」mobile privatization を実現した。
○これは、今のケータイがもろにそうだろうなー。
 移動する私的空間。
・メディアは、「現実」を生産していく仕掛け。
●歴史としてのメディア
・コーヒーハウスが新聞閲覧所という以上に、
 近代ジャーナリズムが形作られる基盤であった。
 公共的な議論の世界が形成されていた
・ジャーナリズムの2つの水脈 
 文字の文化「大新聞」 口承の文化「小新聞」
・私的な親密圏と電話による会話を重ね合わせていく
 イメージが社会的に形成されていった
・テレビを視聴する1日あたりの平均時間は、
 今日でも3時間を超えている。
 「テレビがうちに来る」擬人化されていた
 テレビの最大の作用は、国民的な時間割の役割を果たしてきたこと。
○確かにそうだよなー。番組表に基づく時間割。
 サザエさんを見ると、月曜日の朝のことを考えてしまうような。
 そう考えると、画一的で操作しやすいという面はあったかもなー。
●実践としてのメディア
・20世紀のメディアの基本的な体制が
 確立するのは、1920年代。
・放送と通信のすみ分けが、1980年代を
 境に急速に溶解していく。
 「公」と「私」の区分も曖昧に
・以前、電話は家庭の外の社会と交わる出入り口であった。
 そのため、玄関先に電話がおかれていた。
○これはサザエさんの家でもそうだなー。
 寄居のアパートもそういう作りになっていたな。
・電子的な単位としての家庭は「お茶の間のテレビ」から
 「私の部屋の電話」への移行の過程で、
 多数の個室の集合体へと変容しつつあった。
○今は子供たちが小さいから、家において家族の一体感が
 あるのかもしれないけど、もう少し大きくなってきたら、
 変わってくるんだろうなー。
・ウォークマンから始まり、現在のケータイにより、
 公的空間と私的空間の境界の混乱がはじまった
・閉鎖性の高い公共空間においては「不関与の規範」が
 成立しているが、ケータイを使う人はそれを無視して、
 異質のリアリティーを持ち込むから嫌われる。
・メディア変容の3つの特徴
 1)メディアの身体化、脱場所化
 2)社会的な同期性の弱体化
 3)自己編集性の拡大
・コンピューターが、メディアの宇宙の基本構造を
 根底から変容させていく
・1945年以降、コンピューターを計算機(刺激→反応)と
 いうよりもコミュニケーションのメディアととらえる考え方が
 生み出されてきた。
・1990年代以降、インターネットが爆発的に広がっていった。
 1995年のウィンドウズ95の発売も大きい。
・インターネットによるコミュニケーションの特徴
 1)横断して情報を共有できる
 2)迅速かつ的確に状況の変化に対応できる
 3)強固な組織をもたない個人によるネットワーク
 4)ローカルとグローバルなレベルの間の距離を縮める
・メッセージがインパクトのあるものである限り、
 それはコピーされ転送され、短期間に世界に広がる
○ゆずの木保育園の園舎立て替えも、もう少しネット活用を
 考えてみよう。より物語の側面を出す?
・メディアをナショナルな空間に閉じられたものとして考えることはできない
・メディアリテラシーとは、メディアで語られている言説やイメージが、
 いったいどのような文脈のもとで、いかなる意図や方法によって
 編集されたものであるのかを批判的に読み、
 そこから対話的なコミュニケーションを創り出していく能力。
 あらゆる情報は編集されているということを念頭において、
 メディアと接する。
 メディアが何を伝え、何を伝えなかったのか。
・メディアはどのような形態をとるかが非決定であり、
 未来に向けて変革できる可能性をもっていると、ウィリアムズはみた。

投稿者:関根雅泰

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